イメージ:飛騨高山 料亭 洲さき
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飛騨高山の歴史について

風土や文化を育んできた高山

高山は、「小京都」と呼ばれますが、もともとは今から四百年ほど前、金森宗和の祖父に当たる戦国武将、金森長近公の手によって京都の町になぞらえてつくられた町です。以来、天領として統治された江戸時代には、江戸の町人文化と融合した高山祭りに代表される風土や文化を育んできました。

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江戸時代の木版画

金森宗和について

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金森宗和
金森宗和(1584〜1656)は、飛騨高山城主2代、
金森可重の嫡男重近として、天正12年に誕生いたしました。祖父長近、父可重は、共に当時世に知られた武家茶人でありましたので、千利休が秀吉の嫌忌に触 れて自刃されました際、その長男千道安が、世を憚って飛騨に逃れ、金森家に隠棲していた日々、父と共に奥儀を学び、その後一派を開きました。
31歳で京に上り出家(京都・大徳寺)した宗和は、禁裏、公家に入り多くの知己を得ましたが、中でも後西院天皇、近衛信尋(応山)は、宗和に最も傾倒されました。
近衛家に伝わる記録書「槐記」の中に、加藤清正が、宗和の点前中-隙あらば鎗を入れようと狙ったが、気の満々として一毛の隙なく云々-と記されているあたり、如何にも武人らしい宗和像が浮かび上がってまいります。
洛北三千院の庭を作事し、金閣寺の夕佳亭をはじめ、鎖の間(京都醍醐侯別邸)、六窓庵(国立博物館)、大徳寺真珠庵の庭玉軒等の茶室は総称し「宗和好み」と伝えられております。
池坊専光等多くの芸術家たちとも交わった宗和は、野々村仁清を世に出し、自らも宇治の茶木を以って利休像(京都天寧寺安置)を刻み、71歳で世を去りました。天寧寺には、室町様と呼ばれた母君と並んで、その墓があります。
宗和流茶道は、京都に於いては、次第に消滅しましたが、飛騨に於いては三百有余年を継承いたしております。又、加賀前田公の茶道師範として迎えられた宗和の長子七之助氏方による加賀の宗和流は、以後血脈は絶えましたが、金沢の地に脈々と継承されております。

伝統を受け継ぐ洲さき

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伝統を受け継ぐ洲さき
江戸文化と京文化という相反する二つの流れが天領として保護された高山の町で醸成しながら一つになり脈々と受け継がれ、宗和流本膳という形の花を咲かせました。
料理の様式にとどまらず、もてなす心そのものを表現するといわれる宗和流本膳の背景には、雪深い山国に暮らす人々が唯一の楽しみであった宴席を少しでも楽しめるものにしたい、はるばる訪れた客人をできるかぎりの酒宴でもてなしたい、という心があります。どんなに時代が流れても変わることのない飛騨の人々のあたたかな気持ちが、宗和流本膳を大切に守り続ける大きな力となっています。

本膳と器たち

宗和流本膳では、漆器は主に輪島塗を使います。「宗和好み」の簡素な姿と、用に足りる強さをあわせもった漆器です。洲さきには、江戸時代後期の本膳道具が残っていますが、これらももちろん輪島塗のものです。また、洲さきでは膳には飛騨春慶塗、器は、渋草焼き・小糸焼きといった飛騨高山ならではの道具を用います。これは、「その土地から生まれた材料をつかって作る料理は、その土地から生まれた器にこそ盛られるのが一番ふさわしい」という気持ちの表れなのです。季節と一緒に高山という風土も楽しんでいただきたい。それが洲さきのおもてなしなのです。

イメージ:本膳と器たち
本膳と器たち